戦う君よ、世界を愛せるか。

自己泥酔でふらふらなオタク

イアーゴーは"緑の眼をした怪物"だったのか。〜【オセロー】感想〜


私が初めて【オセロー】の戯曲を読んだのは、確か15歳くらいの時だった。

当時、台詞をまるまる宙で言えるほどのめり込み、愛した舞台【Endless SHOCK】
その劇中劇として、シェイクスピアの【ハムレット】【リチャード三世】【ロミオとジュリエット】が出てくる。
現在の【〜SHOCK】では【ロミオとジュリエット】は省かれ、また劇中劇と本筋の関連性もより分かりやすく描かれているが、今ほど細かく鋭利にブラッシュアップされる前の劇中劇は、まだ物をよく識らない私には少々難しく、それを理解する為にと、シェイクスピアの戯曲本を片っ端から読み漁った。

そこで初めて触れた戯曲本と、数年前に友人の劇団が上演した舞台。その二つを元に私の中にあった【オセロー】と云う作品、そしてイアーゴーと云う悪党に、今回改めて真剣に深く向き合うこととなった。

といってもまぁ、別に専門家でもなくましてや文系ですらない、いちオタクの解釈"風"の感想です。







シェイクスピア四大悲劇の中でも最も分かりやすく、そして感情移入もしやすいと言われている【オセロー】
オセローが最愛の妻デズデモーナへ向ける疑心とそこから生まれる"嫉妬"に焦点を置けば、なるほど現代の恋人や夫婦間でも起こりうる出来事だろうが、私はどうにも上手く感情移入は出来ない。


「いや、ちゃんと話し合ったら解決することやん」


これは、初めて戯曲を読んだ時も今回の観劇を終えた後も変わらないものであり、神山さんをキッカケに初めてシェイクスピアに触れた人の中にも恐らく、同じようなことを思う人がいるだろう。


まぁ無粋と言えば無粋なのだが。
それでも私はこの作品が好きだ。

軋み外れた小さな歯車を、そのたったひとつの行動で直せば元どおり回るはずの行方が、オセローの気高いまでの愚直さと、デズデモーナの高潔な純真さと、何よりイアーゴーの極悪至極な策略が、それぞれ歪な歯車としてカチリとはまることで、逆方向にキリキリと音を立てて回り、そうして悲劇を奏でるに至る。
それこそが、この血腥い悲劇が斯くも美しくこの目に映る理由なのだと思う。

要は、個人的に好きなんですよね、悲劇やバッドエンドが。


だからであろうか。私は随分長い間【オセロー】の主役はイアーゴーだと捉えていた。

しかし、今回の観劇では間違いなく「オセローが主役だ」と納得することが出来た。

それは神山さんのイアーゴーが、中村芝翫さんのオセローや檀れいさんのデズデモーナ、他の演者さんに飲まれていたからという訳ではない。

ひとえに中村芝翫さんのオセローが、あの舞台の上で圧倒的に存在していたからだ。

人種の壁を超えた人望を集める誇り高く勇敢な将軍が、注がれた嫉妬と云う毒に侵され、見る影もないほど狼狽え怒り狂い、実体のない怪物によって最愛の妻を自らの手で殺害し、明かされた真実に絶望し後を追う。
あまりに愚かで憐れなオセローは、中村芝翫さんによって生き、そして死んでゆく、揺るぎないこの悲劇の主人公であった。


一度、演劇としての【オセロー】を観ても覆らなかった「イアーゴーが主役」という私の考えは、中村芝翫さんのオセローによって簡単に崩れ落ちた。それが、イアーゴーを神山さんが演じるのと同じ世界に在ったとしても。

すごい、としか言いようがないのだが、中村芝翫さんほどの方を引っ捕まえて「すごい!」だなんて、私のようないちジャニオタが言うのはあまりに烏滸がましく、もはや失礼にすら値しそうなので、この辺で。




さて、神山さんのイアーゴーの話をしよう。





イアーゴーの二面性


オセローをはじめ、周囲から評される「正直者のイアーゴー」と、悪逆非道で頭のキレる「大悪党のイアーゴー」
その切り替えこそ、イアーゴーを演じる際の醍醐味であり、役者の腕の見せ所だと思うが、神山さんはとても分かり易く演じていた。


オセローに対して忠義を見せる神妙な面持ちのすぐ後、くるりと客席を向きニヤリと厭らしく笑う。
事を謀り、酒が弱いキャシオーをまんまと酔わせることに成功した時は、ぐびぐびと酒を飲むキャシオーのその後ろで、嘲るように口角を上げて静かに酒を煽る。

自分の表情が誰にも見えていない瞬間、その隙あらば、自らの筋書きの上で踊る皆々を嘲笑し、その邪な心が表に出る事を抑えはしない。


だからだろう。イアーゴーは舞台全体を通して、裏の顔である悪党を曝け出している場面の方が多い印象だ。


が、その表現が一辺倒というわけではない。

悪党としての顔を唯一知るロダリーゴーとの場面では、イアーゴーはおおっ広げにその憎しみと謀を語る。
観客がイアーゴーの考えを知る、いわば傍白に近いものであるが、それすらイアーゴーの本性ではなく、ロダリーゴーをいいように扱う為に「悪党」を演じてみせているに過ぎないのだろう。


そう思わせてくれるのは、随所にあるイアーゴーの独白場面との違いだ。


ロダリーゴーの前でのイアーゴーは、荒々しくいかにも悪党といった口調で、目と眉が近い、鋭い怒りの表情でいるのだが、本心を語る独白のシーンでは、目を見開きぎょろつかせ、憎しみを剥き出しにして邪悪に笑う。

悪党イアーゴーの、その更に奥に潜む狂気を見事に表現していた。(ように私は思う)



そして、イアーゴーの感情表現で私が一番震えたのが、二幕終わりのシーンだ。


オセローは、デズデモーナとキャシオーへの疑念に取り憑かれ、二人を殺すことを決意。
そうして「心を痛めながらも二人の不義を密告した忠実で正直な旗手イアーゴー」を、自分の副官に任命する。

そもそも、イアーゴーがこんな極悪至極な計略に至ったのは、オセローが自分ではなく、自分より劣るキャシオーを副官に命じたことが、一つの大きな動機だとロダリーゴーに語っている。

この"動機"についてはまた後述したいが、とにかく「副官の座を奪う」ことは、イアーゴーの謀の中で達するべき目標のひとつだったはずだ。



『これからはお前が俺の副官だ』


オセローに跪く身に降ってきた言葉に、イアーゴーは少し間を空け


『永久(とわ)にお仕えします』


と応える。ここの神山さんが本当に素晴らしかった。


望んでいた地位を手に入れた一刹那、跪き地面に向けたその顔は驚きと感動に震える色を映していた。
まるで通常に武勲を評価され光栄な任命を受けたが如く、純粋にそれを喜び受け入れた。

しかし、オセローが背を向け大階段を登り始めると、イアーゴーはじわじわとその顔から歓喜の色を消し、やがて「全て上手くいった」と言わんばかりに、客席を振り向き邪悪に笑うのだ。

それは、これまで何度もしてきたように"誰にも見られていないから本性の顔を隠さず現して"笑ったのではなく、イアーゴー自身の気持ちの移り変わる様を表していたようだった。


イアーゴーは生まれながらの悪党で、骨の髄までドス黒い怪物…というわけではなく、表の顔として周囲を欺く為の仮面であるはずの、正直な「軍人イアーゴー」も、確かにイアーゴーの一部であり、その全てが仮面であったわけではないのではないだろうか。
私はそこで初めて、イアーゴーも闇から生まれた怪物ではなく、人間なのだということに気付きハッとしたのである。




イアーゴーの動機とエミーリアへの愛


イアーゴーは何故、これほどまでに極悪至極な謀に至ったのか。


イアーゴー自身がロダリーゴーに語る"動機"を挙げるなら


・自分を差し置き、キャシオーを副官に任命したオセローが憎い

・そしてのうのう副官の座に収まったキャシオーが憎い


大きくこの二つだ。
しかし先述したように、イアーゴーはロダリーゴーを自分の手駒として扱う為に、彼の前ですら本心を語っていない可能性がある。


であれば、イアーゴーの本心はどこにあるのか。


演劇において、基本的に心の内を吐露しているとされる独白、このイアーゴーの独白では


・自分の妻エミーリアと寝たという噂のあるオセローが憎い


これが大きな動機であると語られる。
しかしエミーリアとオセローの不倫については、確固たる証拠があるわけではない、とも。


ここなのだ。初めて戯曲を読んだ時から、ここがずっと引っかかっていた。


ロダリーゴーとのダイアローグはなにも、全てが偽りではなく、人事に関することでオセローとキャシオーを憎んでいることは恐らく本心の一部であり、間違いなくイアーゴーの謀の動機のひとつであったはずだ。

しかし独白で語られる動機は主に、自分の妻とオセローの不倫疑惑であり、しかもその件についてはロダリーゴーに一切話していないのだ。

それは「妻を寝盗られた情けない夫」というレッテルを自らに貼ることを拒むプライドの高さからか。人事という真っ当に見える動機に隠すべき最も大きな動機であったからか。あるいはどちらともか。


この答えは出ないのだが、なんにしろ、これまで私にはイアーゴーが「オセローとの不倫で俺をコケにしやがって、許さんぞエミーリア」となるならまだしも、「妻と不倫しやがって、許さんぞオセロー復讐してやる」に至るほどエミーリアのことを愛しているようには、どうにも思えなかった。


例えば、今回の舞台ではカットされているが、オセローがキプロス島へ到着する前の場面での、エミーリアへの言葉の酷さや、戯曲本でのハンカチを持ってきたエミーリアへの対応の冷たさ。
それらからは、イアーゴーが妻を深く愛し、だからこそ裏切りとも言える不貞に耐えきれなかったとは感じられなかった。


けれど、神山さんのイアーゴーは確かにエミーリアを愛していた。

計略の要となるデズデモーナのハンカチを、言われた通りに持ってきたエミーリアは、それを寄越せと言うイアーゴーをからかうように、まるで無邪気にハンカチを右へ左へひらひらと舞わせる。
それに対してイアーゴーは、彼女を優しく抱き寄せ、少女を宥めるかのように腰をぽんぽんと叩き、そして軽く口付ける。
この一連の場面では、後の悲劇の決定打が無情にもイアーゴーの手に渡るという恐ろしい出来事が起こっているはずだが、そんなおぞましい事実をふっと忘れてしまう程に、二人の、夫婦としての姿はとても穏やかであった。



イアーゴーは確かにエミーリアを愛していた。

それを実感することで、ようやく腑に落ちる箇所がある。

それは、何故イアーゴーは早い段階でエミーリアを殺しておかなかったのか、だ。


私はずっと、主役はイアーゴーだと思っていた。だからこそ、イアーゴーにはこの壮大な謀を完遂し、残酷なほど美しい悲劇を完璧に創り上げてほしかったのだ。

けれどそれは叶わない。エミーリアの告白、そのたったひとつの失敗で、イアーゴーの悪事は全てが白日の下へ晒されることとなる。(原作ではロダリーゴーの手紙もあるが)


エミーリアさえ始末しておけば、全て上手くいったはずだった。なのに、何故。
エミーリアから全てが露呈する可能性があり、しかもそれがかなり危険性の高いものであると、イアーゴーほど頭のキレる人間が気付かなかったわけがない。なのに、何故。


答えは簡単で単純。

イアーゴーはエミーリアを妻として愛していた。

ただそれだけのことだったのかもしれない。




デズデモーナへの横恋慕


イアーゴー夫妻には愛があったのだと書いた直後に、横恋慕とはどういう了見だ。といった感じだろうが、これも神山さんのイアーゴーによって理解出来た部分なので続けて書きたい。


そもそも、イアーゴーがデズデモーナに好意を抱いていた、と聞いて「え?」と思う方もいるのではないだろうか。

そう当て推量してしまうほどには、作中ではこの件にほんの一瞬、たった一言だけ触れているのだ。


イアーゴーの、デズデモーナへの横恋慕の決定的な根拠はたったひとつ。それはイアーゴーの独白の中で


『俺もデズデモーナに惚れている。』


そう語っていることだ。


先述したように、独白とは基本的に心の内を吐露するものであって、偽る必要はない。


ここもずっと理解出来なかった。

何故なら、イアーゴーがデズデモーナに惚れている"からこそ"オセローを謀ったと取れる描写が見当たらないのだ。
にも関わらず、省いても全く問題ない台詞でわざわざこの設定を付ける必要はあったのか。

なのでこの一文は、『キャシオーが女に惚れている、女がキャシオーに惚れている』という台詞の流れを汲んだ、ただの言葉回しで、イアーゴーがデズデモーナに惚れているという事実はない、という落とし所で解釈していた。


今でも正直、この台詞はなくたっていいと思っている。

けれど今回、神山さんのイアーゴーの中には、その感情がきちんと存在していたのではないかと思える場面がある。


そのひとつめは、先出のオセローがキャシオーとデズデモーナの殺害を決意するシーン。

キャシオーを抹殺するようオセローに命じられたイアーゴーは


『我が友人は殺します。でも、奥様は…!』


と、デズデモーナのことは殺さないようにと請う。


言葉巧みなイアーゴーのことだ。
作中でも何度か使う手、敢えて逆の事を言って相手にそうさせるよう仕向ける、それをしたまでかもしれない。

しかしその願いが即座に却下されると、オセローに背を向けられ、取り繕わなくていいはずのその顔は、やりきれないといった痛みに少しばかり歪むのだ。

勿論、それだって「忠実で正直なイアーゴー」が心を痛めているという演技かもしれないのだが。



イアーゴーがデズデモーナに惚れていた。

その不確かで曖昧で、なくてもなんら問題のない感情。

けれど、今回は"それ"があったからこそ、神山さんのイアーゴーがとても哀しく美しく生きる場面があった。


それは、三幕大鏡の前でのシーン。
何を言っても取り合わず激しく罵倒するオセローに憤るエミーリアと、嘆き悲しむデズデモーナ、それを慰めるイアーゴーの場面だ。



『泣かないで』


悲しみに暮れるデズデモーナに跪き言葉をかけるイアーゴーに、彼女は拠り所を求めるように縋り付く。

万事総て上手くいき、悲痛なほど泣き叫ぶ憎きオセローの妻のすぐ傍で、どんな悪い顔をして笑うのだろうと双眼鏡を構えた。

しかしイアーゴーは、驚いたように身を固まらせ、どんな顔をすればいいか分からないと、その目に戸惑いを色濃く映していた。

泣き縋るデズデモーナの背に回った手は、彼女を抱き締めることも、突き放すことも出来ずに虚しく宙を彷徨うのだ。


この場面があまりに哀しく、そして美しく在るのは、デズデモーナへの恋慕が確かにあったのではないかと思わせてくれた、神山さんのイアーゴーであるからこそなのだと思う。




イアーゴーは"緑の眼をした怪物"だったのか


イアーゴーがオセローに、二人の不倫を仄めかす場面…イアーゴーが最初の一雫、オセローに毒を注ぐ場面。

そこでイアーゴーはオセローに


『嫉妬にお気を付けください。それは緑の眼をした怪物で』


と告げる。


これは単純にデズデモーナとキャシオーへの"嫉妬"の意の他に、今まさに、蜘蛛のように罠の巣を張るイアーゴー自身を"緑の眼をした怪物"とし、その獲物となっているオセローを皮肉る台詞であるという解釈が多い。し、それが正解だと思う。


偶然にも、神山さんのメンバーカラーである緑を用いて、イアーゴーという大悪党を表す言葉が作中に登場するのだ。
その運命的比喩に、ファンであれば心震わせずにはいられないだろう。



しかし、果たしてイアーゴーは本当に"緑の眼をした怪物"だったのであろうか。




イアーゴーの謀の動機は大きく三つあると先述した。(デズデモーナへの横恋慕はあくまでただの感情であり、動機とはなり得ていないと思う)

その動機により、地獄の責め苦ほどオセローを憎んではいるイアーゴーだが、迎える結末"折り重なった悲劇"は、本当に彼が望んでいたものだったのだろうか。



イアーゴーは謀の末の展望を

キャシオーに対しては
『あいつの地位を頂いて、一石二鳥の悪事といくか。』

オセローに対しては
『ムーアをとことんコケにした挙句、俺に感謝させ、愛させ、褒美を出させてやる。やつの平安を掻き乱して、狂気に追い込んだお礼にな。』


と、始めの方の独白で語っている。
これらから、イアーゴーは当初、人死が出るような結末は思い描いていなかったのではないかと思うのだ。


しかし、イアーゴーの計略は面白いほど上手く進んでいき、皆が思い通り…いやそれ以上に、掌の上で綺麗に踊る。

そうしてイアーゴーはきっと、全ての人間を意のままに操っているような万能感に酔い痴れてしまっていたのだ。

最早、動機による復讐を果たすためではなく、復讐そのものが動機になっていることには気付かずに。



オセローに首を絞められ、彼は自分の手に負えないのではないかと気付いた頃には手遅れだった。

イアーゴーが自らを守る為に咄嗟に重ねた嘘は、オセローを蝕み半狂乱にし、そうしてキャシオーとデズデモーナを殺害する決意へと至らしめた。

デズデモーナの命乞いをはかったりと、一瞬の躊躇いを見せたようなイアーゴーも、願っていた副官の座を手に入れた瞬間、残っていた彼を人間たらしめる部分を総て"緑の眼をした怪物"に喰らわれてしまったのではないか。


そうなるともう後には戻れない。
独り歩きし始めた筋書きの中で、彼もまた舞台の上で悲劇を演じる憐れな一人にしか過ぎなくなったのだ。



イアーゴーを復讐へと駆り立てた"嫉妬"はあくまで動機で衝動であり、彼が怪物であるが為のものではない。

オセローやデズデモーナ、エミーリアやロダリーゴーだけでなく、イアーゴー自身もまた"緑の眼をした怪物"に喰われた内の一人であり、それそのものに成り果てたのではないだろうか。


故に、イアーゴーは"緑の眼をした怪物"に「成った」のだ、と。




三幕大鏡の場面。
先述した、デズデモーナとイアーゴー夫妻のシーン。

デズデモーナとエミーリアが退場すると、イアーゴーは鏡に映った自らの姿を見て尻餅をつき、わなわなと震え後退る。

それは、鏡に映ったのが自分ではなく、己が喰われ成った、あまりにおぞましい"緑の眼をした怪物"の姿だったからなのかもしれない。

(しかしここに関しては"緑の眼をした怪物"であるはずの自分にもまだ、デズデモーナへの恋慕といった人間らしい感情が残っていたことに気付いてしまい、こんなおぞましい顔をした怪物が彼女を抱きとめたのかと、震え慄き苛まれるという説も捨てたくはない)





原作にはないラストシーン


オセローがデズデモーナの首を絞め殺し、ついに悲劇は起こってしまった。

その悲劇の総ての悪はイアーゴーであることが、エミーリアの訴えにより明らかとなる。

イアーゴーはエミーリアを刺し殺し逃亡するも、無様に捕まりオセローの一太刀をその足に受ける。

イアーゴーは終始、反省も絶望も見せない眼で地を睨む。

デズデモーナの後を追い、オセローが自害した後、イアーゴーは負わされた足の傷の痛みからか、気を失っているようで、地に横たわっていた。



『重い心でせねばなりません、辛い報告を。』


ロドヴィーコーのこの一言で、通常【オセロー】の幕は降りる。


しかし今回の公演には続きがあった。


ロドヴィーコーの台詞の後、野盗と思われる集団(あるいは潜伏していたトルコ兵か)が部屋に押し入り、その場にいた全員を皆殺しにして去っていくのだ。

一瞬の出来事に呆気にとられていると、気絶していたためにその凶刃から逃れられたイアーゴーがむくりと起きる。

辺りを見回し、その凄惨な光景に驚きを見せるが、その後ゆっくりと立ち上がり、オセローとデズデモーナが横たわり、エミーリアが寄り添うようにもたれるベッドに背を預け、イアーゴーは静かに呼吸を繰り返す。

それが今回の幕引きだった。




正直、ラストを変えた意図はよく分からない。
単純に文字通りの"折り重なった悲劇"をより凄惨に魅せる為だったのであろうか。


その後イアーゴーはどうなったのか。生きているのか、死んでしまったのか。それは我々観客一人一人の胸の内に託されたのだろう。

私は元々、イアーゴーを主役と捉えていた人間なので、どうせなら最後に死屍累々そのど真ん中で、狂ったように笑うイアーゴー…というラストが観たかったなぁ、なんて。



でもきっと、それは神山さんのイアーゴーではない。

最後の最後、ただ一人生き延びてしまった悲劇の元凶は、ただただ空を見つめるばかりであった。


その目が映すのは狂気か絶望か歓喜か後悔か空虚か。


残念ながら私には正確に読み取ることは出来なかった。
でもきっとそれは正解で、最後のイアーゴーの解釈は、人それぞれに委ねられたのだと思う。


機会があれば、神山さん自身の口から、どんな気持ちで在ったのかを聞いてみたいところだが、それは叶わないだろう。まぁそれでいいのだけれども。









ラストシーン。
起き上がったイアーゴーが、斬られた足を引きずりながら、舞台の真ん中へと不恰好に歩いて行くところ。

ふと、どこかで見たことある場面と重なった。

それは、翼さんのリチャード三世だった。

そうだあれも、緑色の軍服に身を包み、剣を腰に携え、片足を引きずりながら、下手から歩いて行く大悪党だった。


まあ別にこじつけるつもりはないし、姿が重なったとか言いたいわけではないのだけれど。

でもそこで思い出したのだ。
今回この公演のイアーゴーは、翼さんの代役だったのだ、と。


キャリアも実力も絶大な先輩へ来た役。
それを、まだまだ若手の内に入る神山さんが代役として演る。

彼の演技を生で観たことはなかったけれど、映像で見て知る限り、神山さんの演技力に何も心配はなかったし、期待もしていた。

けれど、初めてのシェイクスピア、膨大な台詞量、そしてのしかかるプレッシャー。

珍しく弱気をちらりと覗かせた彼に、ほんの少しだけ不安を抱いたりもしてしまったのだけれども。

そんなもの、蹴散らしてくれた。

ラストシーンまで代役であることをすっかり忘れてしまうくらい、神山さんは堂々舞台に立ち、猛者ひしめく舞台の上で、対等に渡り合っていた。


本当にすごい人だなぁ、神ちゃんは。



あなたが演じた、人間味があって、恐ろしくもどこか哀しい大悪党イアーゴーは、とても素敵でした。

このイアーゴーという役を喰らい、そしてそれが血となり肉となって、役者神山智洋を大きくする糧としてくれることを楽しみにしています。


素敵な舞台をありがとうございました。

残りの公演も全力で、カンパニー全員怪我なく走り切れるよう祈っています。